公益財団法人 角屋保存会(島原角屋 公式サイト)

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角屋保存の意義


主庭 角屋の建物は揚屋建築の唯一の遺構として、国の重要文化財の指定を受けています。揚屋は今で言う料亭にあたりますが、角屋においては、その座敷、調度、庭のすべてが社寺の書院、客殿と同等のしつらいがなされ、江戸時代、京都において民間最大規模の饗宴の場でありました。
 そこでは、単に歌舞音曲の遊宴のみならず、和歌や俳譜などの文芸の席があり文化サロンとしての役割も果たしていました。また、幕末には、勤皇、佐幕派双方の会合場所となり、維新の旧跡といえます。ただ、乱闘の現場になったことはありません。
 
 以上の理由により、角屋を永久に保存する意義は十分にあると考えられます。

角屋略史

寛永18年(1641)六条三筋町から現在地に移築
延宝頃(1673〜80)北側へ拡張
天明7年(1787)南側へ拡張(ほぼ現在の規模になる)
大正15年(1925)大座敷松の間のみ小火により再建
昭和27年(1952)重要文化財建造物に指定

揚屋建築の特徴

 揚屋建築の特徴は、饗宴施設のため、大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、客振舞のために、寺院の庫裏と同規模の台所を備えることにあります。 台所

揚屋の定義

 揚屋は宝暦7年(1757)以降、京の島原と大坂の新町のみとなり、江戸の吉原では消滅した業種ということが世間に広く知られていません。揚屋は太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫などを派遣してもらい歌舞音曲を伴う遊宴によりお客様を歓待するところであります。揚屋の定義は、江戸時代の書物に「饗業の店」として次のように記されています。

揚屋 あげやと訓ず。京師島原大坂の新町は今も在之。江戸も昔は在之。何れの年に廃す歟。今は揚屋無之唯揚屋町の坊名を存すのみ。
揚屋には娼妓を養わず、客至れば太夫を置屋より迎へ饗すを業とする也。
天神及び芸子幇間も客の需に応じて迎之也。唯鹿子位以下の遊女を迎えず。
(嘉永6年 1853 喜田川守貞著『守貞謾稿』)

角屋のQ&A

Q. 角屋は遊廓の店ですか?
A. 角屋は遊廓の店ではなく、今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店です。揚屋には太夫や芸妓を抱えず、置屋から派遣してもらって、お客様に歌舞音曲の遊宴を楽しんでいただくところです。揚屋は江戸時代、民間最大の宴会場でした。そこでは遊宴のみならず、お茶会や句会なども行われ、文化サロンとしての役割も果たしていました。そのため、揚屋建築は、大座敷に面した広庭に必ず茶席を設け、庫裏と同規模の台所を備えていることを特徴とします。ちなみに、いわゆる遊廓の店には、大座敷、広庭、茶席などはなく、ほとんどが小部屋のみの構造であります。

Q. なぜ揚屋というのですか?
A. 江戸初期から中期までの揚屋は、間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階を台所および居住部分とし、二階を主たる座敷としました。その二階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになりました。やがて江戸中期の宝暦(1751〜1763)以降、京都や大坂の揚屋は隣接地を買い増し、天明4年(1784)には揚屋のほとんどが一階を主たる座敷にして大座敷や広庭を備え、大宴会場へと特化してゆきます。一方江戸の吉原では宝暦7年(1757)を最後に揚屋が消滅し、揚屋のない町に変化しました。

Q. いつまで営業していましたか?
A. 揚屋としては明治5年(1872)まで営業し、それ以降はお茶屋業に編入されました。お茶屋業としては、昭和60年(1985)まで「松の間」において宴会業務を行っていました。また、揚屋は「一見さん」(紹介のない方)を迎えることがなく、支払いは「つけ(掛売り)」のみで、現金決済を行いませんでした。

Q. なぜ格子造りの外観になっているのですか?
A. 角屋の外観の格子は、近世初期の京都町屋に広く使用されていた格子のすがたを伝えています。したがって、江戸吉原の花魁(おいらん)を見せるための牢屋のような格子(籬 まがき)では決してありません。

Q. なぜ赤壁になっているのですか?
A. 角屋の壁は赤色がすべてではありません。赤壁の他に、白漆喰(しっくい)壁、黄色の大津磨き壁、浅葱(あさぎ)色(ブルーグレー)の九条土壁、淡い茶褐色(ベージュ)の聚楽土壁があります。赤壁はもともと揚屋など花街の壁ではありません。角屋より古い建造物を調べますと、社寺の書院、客殿に使用された高級壁であることが判明しました。揚屋がそうした高級壁を用いることによって、並みの建物でないことを示したものと思われます。また、赤壁は華やかなものですから、祇園などの花街に多く用いられています。

Q. なぜ室内は真っ黒に煤けているのですか?
A. 昔の照明には、蝋燭を灯す燭台や灯油の行灯が用いられました。室内を明るくするためには、たくさんの蝋燭を灯すことが必要でした。その結果、油煙で天井、襖などの室内が真っ黒に煤けたのであります。ちなみに、角屋を訪れた司馬江漢の日記には「燭台数十、昼の如く照らす。」とあります。


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