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1.島原大門
寛永18年(1641)に開設された島原は、当初掘と塀で囲まれ、東北角の大門のみであったが、享保17年(1732)に西の大門が設けられた。その後東北角の、大門は、明和3年(1766)に島原の中央を東西に位置する道筋と呼ばれる道の東端である現在地に付け替えられた。
当初の門については詳らかでないが、享保14年(1729)には、冠木門であったと考えられ、その後塀重門、さらに腕木門となった。嘉永7年(1854)の島原東半分の大火では、この大門も焼失した。大火後、簡易な冠木門で再建されたが、慶応3年(1867)には、神社仏閣なみの本格的な高麗門として立て替えられた。これが現在の大門である。
昭和61年(1986)に京都市登録有形文化財として登録された。 |
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2.歌舞練場跡記念碑
島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていた。しかし、当初の歌舞練場は、狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この新歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。戦後の同22年以降は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)同組合の解散に伴い、歌舞練場を解体し、歌舞練場120余年の歴史を閉じることとなった。
また、天保年間の島原鳥瞰図によると、当地はもと稲荷社が鎮座していたことから、この大榎には、歌舞練場解体時までその根元に祠が祀られていた。約200年の樹齢を誇るがごとく、樹高は15m、幹周も2mとなり、今なお神木としての威厳を留めている。
現在は花街の象徴であった歌舞練場と古木の由来を刻して、記念碑が建立されている。 |
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3.大銀杏
島原住吉神社の旧境内地北端に植わっていたこの大銀杏は、明治維新後の廃仏毀釈により、社格株のない住吉神社が廃社になるも、神木として遺された。その後明治36年(1903)に神社は再興されたが、境内がこの大銀杏のところまで拡大されるには至らなかった。
昭和5年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、さらに神木として崇められ、今では樹高(20m)、幹周り(3.5m)ともに樹齢300年相応の島原一の巨木となっている。 |
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4.島原西門
島原の入口は、当初東の大門のみであったが、享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられた。それは両側に門柱を立てただけの簡略なものであったが、天保13年(1842)に現在位置に移され、構えも高麗門型となった。
近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが、昭和52年(1977)、輪禍によって全壊した。3年後に門柱のみが復元されたが、平成10年(1998)に再度の輪禍に見舞われて、それも倒壊した。現在は島原西門の由来と往時の形容を刻して石碑が建立されている。 |
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5.島原住吉神社
島原住吉神社は、もと島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が、霊験あらたかにして良縁の御利益があり、参詣者夥しきため、享保17年(1732)祭神を島原の西北に遷座し建立されたものである。その規模は、南は道筋(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで及び、広大な境内地を有した。爾来島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていた。
ところが、明治維新後の廃仏毀釈により、神社株を持たない当社は廃社となり、祭神を歌舞練場内に祀ることとなった。
しかしながら、地元の崇敬心は篤く、明治36年(1903)には、船井郡本梅村から無格稲荷社の社株を譲り受け再興した。ただし、現在の狭い境内地となリ、正式社名も住吉神社は認められず、稲荷神社とされた。
平成11年(1999)には、社殿、拝殿を改修のうえ、社務所も新築し、境内の整備がなされた。同13年には、懸案の社名を島原住吉神社と改称し、旧に復することとなった。 |
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6.幸天満宮
住吉神社の境内社である幸天満宮は、当初揚屋町の会所に天神の祠があり、それが、享保19年(1734)当所に遷座したものである。延享5年(1748)より、筑紫太宰府天満宮にならい、鷽替の神事が営まれるようになった。それは、色紙、短冊などを持ち集まり、「鷽を替えん」と言いつつ取り交わす甚だ興あるもので、諸客の見物で賑わったが、明治以降は完全に廃れてしまった。 |
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7.東鴻臚館跡
平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20年(920)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。 |
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